Our Team
スタッフ紹介
氏名 | 平野全俊(ひらのまさよし) |
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出身地 | 東京都武蔵野市吉祥寺 |
生年月日 | 1979年5月24日 (双子座) |
血液型 | A型 |
家族構成 | 妻 |
趣味・特技 | ウォーキング ・ 写真 ・ ゲーム |
その他 | 戸越公園在住 |
お客様の想い描いている未来を実現するべく取り組んでいます。
― はたらくおうちにはいつ入社しましたか?
2020年の1月です。入社してすぐ、東京ビッグサイトで開催した「資産運用EXPO」の出展に関わりました。
― 資産運用EXPOの出展では、どんなことをしましたか?
前職が広告代理店で、そのイベント部門で展示会出展を行う仕事などもしていました。はたらくおうちが資産運用EXPOに出展するのは2回目でしたので、2019年出展のブースの写真などを見せてもらいましたので、色々アドバイスをさせていただきました。
― 例えばどんな点をアドバイスしましたか?
1回目のブースを見ると、ほとんどの掲示物を人の目線の位置に掲示していました。そうすると人が集まった時に見えなくなってしまうので、目線より上に掲示する必要性を伝えました。
また、最初にブースに人が集まってもらわないといけないので、遠くにいる人を引きつけるために上の方に大きく、わかりやすいワンフレーズのキャッチコピーを掲げることをアドバイスしました。上の方に行けば行くほど、一言で伝わるようなわかりやすいフレーズを大きく書いておくことが必要なんです。
― なるほど、その通りですね。
遠目で見える所に細々と書いてあっても、読んでもらえなくなります。
他には、ブース内での人の導線などもアドバイスしました。
― 展示会出展にだいぶお詳しいですが、前職ではイベント関係のお仕事をかなりやられていたのでしょうか?
はい。ビッグサイトやパシフィコ横浜、幕張メッセなどで開催するイベントで、企業様が出展する際のディレクターをしていました。また、カメラ関連の大きな展示会が毎年パシフィコ横浜であるのですが、主催者側の仕事もしていました。
― 車で言うところの東京モーターショーに当たるビッグイベントのようですね。すごいですね。
イベントの仕事をしていた時は、常設の企業ミュージアムの企画とディレクターもしていました。大手の食品会社様の工場で、食品がどのように作られるかを見学者に紹介するミュージアムです。北海道から九州の、全国あちこちの工場に行きました。
― 企業ミュージアムの企画とは、どのようなことをするのですか?
たとえば既存の施設をリニューアルするようなケースですと、既存では製品ができて行く過程をパネルで見せているだけだったりするんです。書いてある説明も、専門用語の羅列で小難しかったり…。ですので、「どんな物を見せて、どんなことを体験してもらったら、ファンになってもらえるか」の企画を考えていました。
例えば味噌のメーカーさんなら、大豆が発酵して行く過程は暗い工場のタンクで行われているのを、プロジェクションマッピングで見える化し、どんな工程が行われているのか分かりやすくCGで見せたりですとか。
興味を持って見てもらい、「面白い」と思ってもらって、そのメーカーさんがどれだけ工夫をして、どれだけ手間暇をかけて良い製品を作っているかが伝わるようにするのが仕事でした。「うちはこんなことをやっています」と押し付けてはダメですので、「自分の生活にこれがあったら、生活がどのように、どれだけ豊かになるか」をイメージしてもらえるストーリーを作っていました。
― すごくクリエイティブな仕事をしていたのですね! 最初からそのお仕事だったのでしょうか?
いえ。紆余曲折がありました。(笑)
紆余曲折の経歴、最初は、テレビ番組の美術制作
― 順番に教えていただけますか?
在学中に推薦を受けて、日本テレビの子会社のデザインプロダクションにインターンに行きました。日本テレビの番組の美術制作を一手に担っている会社です。
自分の担当はCGやグラフィックだったのですが、みんなMacで制作をしていて。当時のMacは動作が不安定で、よくシステムエラーを起こしていました。私はそういうものを直したりするのが得意だったので、部署の人のMacをその場で直したりしていたら、「それまでパソコン修理業者に何十万円も払って直してもらっていたのを、その場で直してくれる」ということで重宝されましたね。(笑)
職場の方々とも馬が合って、「そのまま来てくれないか?」と言われ、就職しました。
― すごいですね。
報道番組などでは1分1秒を争って作業しているので、そういう時にエラーが出るとみんな青ざめていました。それをその場で直せたのも良かったみたいです。(笑)
― どんな番組を担当しましたか?
今でも続いている番組で言うと、「世界の果てまでイッテQ!」や「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!」、「世界まる見え!テレビ特捜部」など、関わったのは数え切れないくらいあります。「news zero」などの報道番組全般もですね。
― どんな部署で、どのような仕事を?
主にやっていたのはCGでした。ニュースで出てくる、事件現場のCGなどです。他に情報番組のめくりのパネルなども。デジタルもアナログもやっていました。
― そちらには何年いましたか?
7年くらいです。そのあと転職しました。
― 名の通った会社にいらっしゃいましたが、なぜ辞めたのでしょう?
仕事自体はとても楽しくやっていたのですが…。テレビ局の子会社ですので、営業は全くしなくても仕事が入ってきます。その環境もあってか、「もう仕事受けられません」ということを言う人がいたのです。仕事をいただいているのに。
― なるほど。
自分がどれだけ手間をかけ緻密なCGを作っても、手を抜きまくったCGを作っても、仕事の単価は変わりません。良い仕事をするのでなく、早く終わらせる仕事の仕方になってしまうのが、仕事をする姿勢として違和感を覚えるようになりました。
ある時後輩が、成果物のチェックをADさんから求められた時に、指でつまんでぶら下げて渡したんですね。その出来事が自分の中で衝撃的で。自分が作った物に誇りを持っていないんだなと。
とにかく出せばいいという仕事の仕方になってしまっている。それ以降、「それではいけない」とことある毎に思うようになりました。
― 社内の常識と一般社会の常識のずれに気づいたんですね。
そうです。自分自身も知らず知らずのうちにそれに染まっていたことに気づき、恐怖を感じました。
それに、会社の看板で受けられている仕事であって、自分にそんなに実力がある訳でもないと気づいたんです。それで、自分の本当の実力が試される場所に移るべきだと考えました。
― なるほど。
また、あまりに多忙で、1年間で腎結石で3回倒れたのもあります。1日働いて休む時間が15分程度とかザラでした。(笑)分単位で番組を作っているので、トイレに行く暇もなかったのです。
― まずいですね。
その時は町田市の実家から通っていたのですが、家にいる時間が短く、毎日5時間寝てすぐ会社という生活で…。寝ている間にそのまま死んでいないか、母親が心配で毎晩見に来ていたそうです。(笑)
次は総合広告代理店で、実績を積んだ
―お体も壊してしまって、それからどうしましたか?
とある方面から紹介を受けて、フィーリングも合ったので、そちらに移りました。
― そこには何年いましたか?
14年くらいです。
― それが先程お話が出たイベント関係の会社ですか?
そうですが、最初はその会社で違う仕事でした。グラフィックデザイナーとして入りました。
― 業種は、総合広告代理店なんですね。
そうです。 なんとか早く実績を出さなくちゃと必死でした。テレビの仕事をしている時に「15分後にはオンエアします」というのを間に合わせる自信はあったんですが(笑)、それ以外のスキルは通用するか、最初とても不安でした。
― 実績は出せましたか?
九州のほぼ全域に店舗があるパチンコ店チェーンが大きなクライアント様の一つだったのですが、販売促進物のデザインの提案が弱かった様で、取れていなかったのです。ノボリですとか、入口のフロアマットですとか、チェアカバーですとか。
私もそれまでパチンコ業界の仕事はしたことがなかったのですが、ゼロからの視点で作ったデザインが斬新だったようで、これまで全く取れていなかった仕事をいただくことができ、社長からも褒めてもらいました。その経験が、自信になりました。
― しっかり実績を出されたのですね。
おかげさまで、大手カフェチェーンさんのDMデザインや、大規模ショッピングモールのポスターなど、大きなクライアント様の仕事は自分が担当させてもらうようにもなりました。
けれど、2010年代になった頃から、世の中に外国製品が台頭して来ました。
― 世の中が、そのように変わりましたね。
外国製品は買った時は良くても1年で壊れてしまったりします。でも、買う瞬間はそれが粗悪品かはわからない訳です。それが支持されてしまう世の中になってしまい、これまでの「良い物を作れば買ってもらえる」という考えのままでいてはダメで、それが伝わるプレゼンテーションが必要なのだと強く思うようになりました。その頃から、営業という職種に興味を持つようになってきました。
― それが、はたらくおうちでの今の仕事につながっているのですね。
はたらくおうちに至るまでにはまだまだ道のりがありますが、最初のきっかけではあります。(笑)
信頼していただいたら、素敵なことが起きた!
― そこからどうしましたか?
この頃、東日本大震災が起きて企業が広告を出せない状況になり、周りの人たちもどんどん辞めて行ったりしていました。私も一度、会社を辞めようかなと思っていたのです。
― 一度辞めようとしたんですね。
パチンコの仕事を引き続きしていましたが、その頃にゲームやアニメなどとのコラボ台が出てくるようになりました。
営業部の先輩が、「自分はゲームをしないので、この販促の仕方がわからない」と言うのですが、自分はそのゲームをやっていたので、「そのシリーズをきちんとまとめてアピールし、こういったストーリーがあってこの台があるといったストーリー性を表現すると、ファンが喜んでくれます」とアドバイスしたら、喜んでくれました。
その先輩に、辞めようと思っていることを話したところ、「平野を辞めさせる訳にはいかない」と、営業部に引き抜かれました。(笑)
― ここで営業の道に行くのですね。
この時が初めての、営業職の経験になります。
― 営業職時代は、どうでしたか?
大手の広告代理店と組んで行うイベントのプロジェクトがあったのですが、すごく緊急性の高い連絡が多くて、夜中3時に普通に電話連絡が来るような状況でした。会社の他の人は出ないのですが、「自分が防波堤にならないと、会社として信用を失ってしまう」と思いましたので、電話を取り続けましたね。そうしたら結果的に、ご信頼をいただきました。(笑)
― すごいですね。
そんな時間に電話がかかってくるということは、かけている方も緊急の課題を抱えていると思うのです。その電話をかけざるを得ない状況になっているので、その人の立場や事情も考えるべきなのかなと思います。 たいへんでしたが、素敵なこともありました。
― どんなことですか?
大手広告代理店の方の紹介で、スロット台の音楽制作の仕事があり、予算の管理や工程管理など、プロデューサー的なポジションで入りました。
その時に、制作チームとしてご一緒した方々が、ゲーム業界でも名だたる方々で、もともと私もゲーマーでしたので、憧れの人たちでした。
それで、夜中でもなんでも対応して信頼をしていただいたら、自分の好きだったものに引き合わせてもらうことも起きるんだなということを強く思いました。営業という仕事についても、お客様に対して真摯に接してしっかりやり切ると、信頼していただいて、こんな素敵なことが返ってくることがあるんだと思いました。人と繋がりができることは、素晴らしいと感じました。
― 素敵なご経験ですね! そこからはどうしましたか?
音楽の仕事をスムーズに進めたこともあって、社内で「平野が案件に入ると、現場がうまく回る」という評価をもらい、営業部から今度はイベント事業部に誘われました。
― それで最初にうかがった、イベントのお仕事になるのですね。
そうです。最初のうちは手伝いだったのですが、ある程度イベントを回せるようになったら「こっちに来ないか」と言われて、迷いましたが移りました。
― なぜ迷ったのでしょう?
とにかく激務になることがわかっていたからです。
けれど、イベント事業部の方が仕事の予算が桁違いに大きいのです。自分の年齢を考えると、それぐらいの規模の仕事をできるポジションに行かなくてはと思いました。
自分自身もあと2年で40歳という年齢だったので、それまでに結果を出さなくてはと考え、移ることにしました。2年間でやり切ると決めましたので、誰も追いつけない位のことをこの期間にやろうと思い、詰め込めるだけのスケジュールを入れました。
― テレビの仕事をしていた時に匹敵するくらい忙しくしたのですか?
忙しさの種類は違いますが、それくらいと思います。イベント事業部に移ってからは、まともな休みを取ったことがないと思うので。
パシフィコでイベントが終了して、ブースの解体開始を指示してすぐに長野に向かっていたり、帯広に1ヶ月半行きっぱなしだったこともありました。その頃には結婚していたので、妻にはすごく心配されました。
― うかがうのが遅れましたが、ご結婚なさっているのですね。
はい。33歳の時に結婚して、妻と2人暮らしです。妻は前職の後輩です。
― 2年間、そのように過ごしたのですね。
はい。社内でMVP賞をいただいたり、昇進も果たしました。結果が出せたかなと思い、次のチャレンジをする時と考えました。
はたらくおうちの理念が心に刺さった
― そして、はたらくおうちに出会うのですね?
ある日「はたらくおうち」からオファーの連絡がありました。
― 他には、仕事のお知り合いなどから引き合いが来たりはしていませんでしたか?
ありがたいことに、それもありました。 けれど、いただいたお話は本当にこれから自分がやりたいことか?などと考えている時に、はたらくおうちから連絡をもらいました。
それで、はたらくおうちに興味を持って色々調べ始めました。
― 調べてみて、いかがでしたか?
はたらくおうちのホームページや、代表の沖村の紹介記事などを読んだのですが、はたらくおうちの理念や経営方針がすごく心に刺さりました。
― どういうところが心に刺さったのでしょう?
人に対して誠意を尽くすべきだと言う経営姿勢。自分たちの商品を介して、人の幸せを作る。シンプルに、人のためになることをしている。そういったところです。
不動産業界はブラックな部分も多いとよく聞きますが、代表の沖村が逃げも隠れもせず、顔と名前を出してそういうことを言い切っている姿勢がすごいと思いました。
― なるほど。
これは、社会人になってからずっと抱いてきたジレンマなのですが、本当にお客様のためになる仕事って、なかなかできないのです。お客様のためよりも社内の事情が優先されてしまったり。本当ならもっと良い物を作れるのに「そんなことまでしなくていい」と言われたり。自分はずっと物を作ってきた人間なこともあり、「本当に理想的な物を作れない」ジレンマを感じていました。
ところがはたらくおうちは、代表が自ら「お客様の幸せを作る」という情熱を持っていることがすごいと感じ、非常に共感致しました。そしてもちろん、扱っている「はたらくおうち」という商材もすごいと思いました。
― なるほど。その後は、どのように進みましたか?
はたらくおうちコンサルタントの達と、何度かメッセージのやり取りをした後、二度ほど会いました。そして、「はたらくおうちが本当に良いものかどうかは、セミナーを聞いてもらうのが一番良いので」ということで銀座で開催したセミナーに誘ってもらい、聞きに行きました。
― セミナーを聞いて、どうでしたか?
はたらくおうちの仕組みは、買う人のことをすごく考えていると思い、さらに感銘を受けました。
― どんなところで、そう感じましたか?
例えば、団体信用生命保険について。ローンを借りている人が返済期間中に亡くなったりした場合、団体信用生命保険に入っていればその時点から返済の必要がなくなります。それは普通に戸建てを買った場合でも、賃貸併用住宅でも同じなのですが、戸建てでは残債はゼロになっても固定資産税を払わなくてはならない分マイナスになって行きます。それを払うために、残された家族は働かなければなりません。 一方、賃貸併用住宅は賃貸部分からの家賃収入があるので、固定資産税も払えてしまう。残されたご家族は家賃収入で、贅沢をしなければ働かなくても食べていける。安心感がまるで違います。
それを聞いて、この仕組みはすごいなと思いました。
できる限りのコンサルティングをするのが、はたらくおうち
― セミナー受講後は、どうしましたか?
その後、代表の沖村と初めて会ったのですが、その時も「お客様に幸せになってもらうことを中心に考えていいんですよ」という話を聞き、沖村の熱さをあらためて感じるとともに、代表者がそのように言い切っている環境にすごく魅力を感じました。
これまでのキャリアで、「自社の収益はもちろん大事だけれど、お客様の幸せを実現することがその前にあるべきなのでは?」という思いを、ずっと抱いていたので。
― その通りですね。それで、入社することにしたのですね。
はい。「お客様を幸せにする。それが最優先」という理念にとても共感したので、ぜひ入らせてくださいと言い、入社しました。
― ちなみにこれまで、不動産に関わったことはありましたか?
不動産業界そのものはありませんでしたが、高校で設計、建築を学びましたので、そちらについての知識はもともとありました。
― そうなのですね。これまでで印象に残っている、はたらくおうちの商談エピソードを聴かせていただけますか?
ご購入には至らなかった方のお話でもよろしいですか?
― お願いします。
旦那様、奥様とも40代半ばで、お子様が1人のご家族でした。お気の毒なのですが、旦那様が以前鬱病を患われたということでした。その前提ですと、ご夫婦それぞれに融資が降りるペアローンが使えませんので、はたらくおうちのご購入は難しい条件でした。
ただ、旦那様は鬱病を患われたのはもう何年も前で、お医者様からは薬をもう飲まなくても大丈夫と言われているそうなのです。けれど、不安だからという理由で飲み続けていた様です。
ローンの審査は、薬の服用をやめてから2年、3年経過してからでないと病気を除外して考えてくれませんので、早くおやめになっていれば良かったと思います。ご年齢的にも既に35年でのローンは組めませんので、早くやめる必要があります。
奥様には、はたらくおうちの良さは充分理解していただいていて、「家賃収入が入り続けるはたらくおうちを、子どもに残して上げたい」とのことでしたので、「お子様のことを第一にお考えになるのであれば、お薬のことなどについてよく話し合われて、ご家族でベクトルを合わせてください」というアドバイスをさせていただきました。
― そこまでお話になるのですね。営業ではなく、コンサルティングですね。
すぐにはご購入に至らないお客様にも、私からお話できることについてはできる限りお伝えしたいと思っています。私達は単に「並んでいる商品を売るだけ」ではありませんので、せっかくお時間を割いてご相談に来ていただいたからには、できる限りのコンサルティングをさせていただくのが仕事と思うのです。
それが、はたらくおうちというサービスのコンセプトでもあると思っています。
― 本当にそうですね。仕事をする上で、心がけていることはありますか?
周囲の人をできる限り大事にすることでしょうか。例えば飲食店などで店員さんに横柄に振る舞う方がいらっしゃいますが、絶対やってはいけないことと思います。人間対人間ですから、こちらが品位を持った対応をすれば相手も気持ちが上向きになり、仕事のパフォーマンスが少しでも上がると思うのです。 自分の言葉や振る舞い方一つで、周囲の方の気持ちを上向きにできると思います。
― 素晴らしいですね。
子どもの頃から、父に「品位を大事にしろ」と言われ続けたのですが、自分で仕事をするようになって、その言葉の意味に気づいた気がします。
平野の生い立ち、プライベート
― ご出身はどちらですか?
吉祥寺です。父の仕事の関係で社宅でした。その後、小学生の時に親が町田に家を買って引っ越しました。
― ご家族構成は?
実家では、父、母、4つ上の兄、2つ上の姉の5人家族でした。 今は結婚して、妻と2人暮らしです。戸越公園に住んでいます。
― 戸越公園ははたらくおうちの本社がある所ですが、入社して引っ越したのですか?
いえ。入社前から、たまたま戸越公園に住んでいました。(笑) 結婚した当初は生まれ育った吉祥寺にいたのですが、妻が仕事で千葉に行くことが多く、通いやすいように品川区に越しました。私も当時、イベントの仕事で出張が多かったので、羽田空港に行きやすいことも考えました。
― 子ども時代は、どんな家庭環境でしたか?
父が非常に厳格な家庭でした。兄に対して特に厳しく、真冬に家から締め出されるようなこともあったので、そんな時はきょうだいで2階の窓から上着を投げて上げたりしました。おかげできょうだいで助け合う構図ができて、今でもきょうだい仲はとても良いです。(笑)
― 厳格なご家庭だったのですね。
末っ子なこともあって、そういう家庭の中で雰囲気を察知して両方を取り持つような話題を振ったりするのが自然と身につきました。知らず知らずのうちに人間関係の潤滑油になっていることも多いようなので、それは今の仕事にも生きているかなと思います。
― 学校は、地元の学校でしたか?
中学までは地元の公立学校でした。
― 高校は?
中学時代にインテリアや内装に興味が出て、高校で製図などを勉強したのですが、興味があったインテリアとはちょっと分野が違って、コンマ数ミリのシャーペンを使い分けて石垣の製図とかをしていたので、途中で「こんな細かいこと、ずっとやりたくない!」と気づき、進路変更しました。親には「せっかく付属の高校に行かせたのに」とすごく怒られました。(笑)
― よくある話ですね。(笑)
けれどその時に建築の基礎を学んだことが、はたらくおうちに入ってから役立っているので、人生わからないものです。(笑) 人生の大きな転機として、音楽との出会いがあって。姉が持っていたX JAPANのテープを小学5年生くらいの時に聞いて、独特のギターの音色に衝撃を受けました。
学校の音楽室にアコースティックギターがあったので友達に弾き方を教えてもらい、ますます興味が湧いて、高校受験では「合格したらギターを買ってほしい」と親に頼み、買ってもらって、軽音楽部に入りました。
― X JAPANとの出会いが、大きな転機だったのですね。
その頃にはhideがソロ活動を始めていたので、その曲をコピーできるように練習したりしていました。 hideを好きになったことで、音楽以外のクリエイティブにも興味が出て。hideって、ギターをすべて自分でペインティングしているのです。それがものすごく素敵で、「音楽の感性を持つ人は、クリエイティブ全般の才能を持っているんだな」と思いました。
一方、音楽グループの販促ポスターやツアーグッズを見ていると、「なんでこんな写真を使って作るのかな? もっと良いのがあるのに」と思うことも多くて。
自分がそれを作るスキルがあれば、自分好みに作れるんじゃないかと考えました。それで、グラフィックの方面に行くことを考え始めました。
― それで、デザインの道に進んだのですね。
hideのおかげで、そういったクリエイティブに興味を持った人って多いと思います。人間性も素晴らしくて、hideのファンの方達も良い影響を受けていて、ライブ後は会場やその周辺のゴミ拾いなどもファンが自らしっかりやるんです。色んな意味で、人々に大きく影響を与えていたと思います。
― それで高校卒業後は、先程うかがったデザイン学校に行かれたのですね?
そうです。マルチメディア科を選んだのは、これもhideが、その時既に複数のライブ会場をつないで中継するということをやっていたからです。
デスクトップミュージック(DTM)などの当時の先端技術にも、まだ世の中が気づいていない時から取り組んでいて、彼の先見性のすごさに気づきました。
彼の幅広い知見と才能に憧れ、「これからは広い範囲の知識を学ぶ必要がある」と感じたので、マルチメディアを選びました。
― どんなことを勉強しましたか?
音の作り方や、映像の編集の仕方など、色々学びました。油絵も、CGグラフィックもやりました。その時学んだことが、テレビの仕事でも広告代理店の仕事でも生きましたし、今はたらくおうちでも、動画の編集などをしています。
― それで推薦を受けて、テレビのデザインプロダクションの会社にインターンに行った訳ですね。
はい。そういった経緯です。
― 今は、趣味は何かありますか?
写真を撮るのが好きです。最初は、親友の結婚式があって、「それを記録に残さなくちゃ」と思ったのが始まりで。
「その瞬間」を残しておくことが大事だと思っているので、会社のイベントですとか、親族の集まりとかでも、率先して写真を撮っています。
― ギターはまだ弾いてますか?
最近はもう、弾いていないですね。(苦笑)
― 好きな音楽のジャンルやバンドなどは、X JAPANとhide以外にありますか?
パンクロックや、メロディック・ハードコアをよく聞きます。洋楽でしたら、Fall Out Boy。日本なら、LUNA SEA、BUCK-TICK、THE YELLOW MONKEY、BOØWY。
ちょっとジャンルが違いますが、大江千里、大事MANブラザーズバンド、爆風スランプも好きです。
― 好きな映画はありますか?
キアヌ・リーブスが好きで、彼が出演しているマトリックスやコンスタンティンが好きです。
他に、インディ・ジョーンズとグーニーズは、子どもができたら絶対見せようと思っています。(笑) グーニーズは、友達を大事にすることの大切さを教えてくれます。
― 行きつけのお店などはありますか?
飲食店ではないですが、表参道のZAZAと言う美容室をいつも利用しています。もう20年通ってますかね。前回のカットをきちんと覚えてくれていて、例えばこれから撮影される仕事があると言ったら、「じゃあ、柔らかい雰囲気になるように髪の色のトーンを落としておきましょう」といった感じで、提案をきちんとしてくれるんです。今の仕事をする上でも、参考にさせてもらっています。
― 座右の銘はありますか?
「一期一会」です。一度会ってそれで終わり、という意味ではなくて、人と会っているその時は二度と来ない瞬間だから大切にするべき、という意味で捉えています。
平野からのメッセージ
― 最後に、お客様へのアドバイスやメッセージをお願いできますか?
はい。「いい物件ありますか?」というご質問をいただくことがありますが、それは人によって全て違うと思います。ですので私は、「買った後、どうなりたいですか?」と聞き返しています。
家は、買うことがゴールではないと思います。家を買ったその後に、ご自分のライフスタイルをどうしたいか、どういう家族になって行きたいかを、どのように思い描いているかが非常に大事と思います。
「はたらくおうち」という商品は、買う人が理想とするライフスタイルや人生計画を実現するためにあるものですが、それがマッチングするかは人によって違うと思います。例えば、単純に「家賃収入が入るから」といって、物件価格が買える範囲で都心から遠く離れた所に買い、職場は都心で、通勤で毎日つらい思いをされたりするようでしたら、それは合っていないと思います。
「どうなりたい」という願望がしっかりしないまま買ってしまうと、どこかチグハグな買い物になってしまうので、「買った後にどういう人生にしていきたいか?」をご家族で話して、ベクトルを合わせていただければと思います。
その過程で、ご不明点や、第三者からのアドバイスが必要になりましたら、いつでもご連絡ください。それについてアドバイスをさせていただくのが、「はたらくおうちの本質」だと思っています。
― ありがとうございました。